教育について考える 「校長専用駐車スぺース」
なんとこの4月から、私は市の教育委員になってしまった。市の教育長が、私の母の教え子の一人で、現場の教員だった頃、学校の子供を連れて私の外来を訪れたときの印象が良かったからだと言うが、真偽は分からない。教育委員には、一人は教育関連の職業以外の人が就任することとなっており、慣習として医師もしくは歯科医師がその任にあたっているという。前任の歯科医師の任期満了の後釜ということだが、人徳や学識で選ばれたというより、母親(県の教育委員の経験者で島尻地区の教育関係では重鎮とみられている)の七光り、もしくは、市役所の一番近くで開業している暇そうな医師というあたりが、選定の理由と思われる。教育論に一家言あるうるさ型の委員より、教育行政とは無縁の立場、リベラルでかつラディカルな視点が求められていると勝手に解釈し、その役割を全うしようと思う次第。もとより予定調和的な議論は本意ではなく、多少の波風が立てば私の存在価値もあると考える。これまで教育について、深く考えることはなかったが、これからは、いろいろ自分なりの考えをまとめていこうと思っている。以下に掲載するのは、数年前に父兄の一人として、学校側に送り付ける寸前までいった私の意見書である。
校長専用駐車スペース
去った日曜日、課外活動に子供を学校に連れて行ったときのことです。グラウンドに一番近い駐車スペースが空いていたので、そこに車を止めようとした時、信じられないものを目撃しました。そのスペースの壁に「校長専用」という看板が・・・。その駐車スペースは、グラウンドに近いだけでなく、校舎にも一番近いベストな場所なのです。私は驚き、あきれながら、しかたなく少し離れたスペースに駐車しました。もう一度横目でそのサインを見て、大いに情けない気持ちになりました。
本来、教師とは、その倫理観、価値観を生徒・学童に模範として示すべき職業ではないでしょうか。ましてや校長ならばその学校に勤める教職員を指導、教育していくべき人です。看板なんか無くたって、毎朝一番に学校に来て学校運営に努力していれば、「校長があそこのスペースに止めているのは、朝、誰よりも先にきて一仕事終えているからだ。我々も見習わなくては。」と他の職員も思うことでしょう。もっと優れた人格者なら、一番先に来ていても、次の職員が止めやすいようにと、少し離れた奥の方から駐車するかもしれません。その姿を見た職員はどんなにか感激し、学童にも話して聞かせ、子どもたちも共に感銘し、「ああ、いい校長をもったなあ」と末代までの語りぐさになるかも知れません。それが教育というものではありませんか?それがどうですか、「校長は一番偉いから、遅く来ても一番いい場所に駐車するのだ。そのスペースは校長専用にあけておかなければならないのだ。」ですか? 職権・地位を振りかざしての乱行がまかり通って、何が教育現場ですか? 職員の健康管理にも気を配らなければいけない校長であれば、歩くことの大切さを説き”早く来た人ほど、離れた駐車スペースに止めましょう”運動を展開してもいいほどです。仮に他の教職員が、比較的高齢の校長のためにベストな駐車スペースを使ってもらおうとしたとしても、それを断固断る良識があってしかるべきです。何か正当な理由があって(そんなものないと思いますが、無理に考えると、校長は対外的な活動のため頻回に学校を離れ、戻るときに車が止められなければ困るとか)、どうしても校長がそこに止めなければいけないのであれば、「特定車両専用 業者または一般の車両の駐車はご遠慮下さい。」等の看板を出すくらいの配慮が必要でしょう。「校長専用」はやめて頂きたい。
陳腐な権威主義や組織の生臭い人間関係にまだ毒されていない子どもたちに、「校長専用」の看板をこれ以上見せたくはありません。直ちに取り外してもらいたい。そしてそのことに何の疑問も持たない他の教職員、あるいはおかしいとは思いながらも何の行動も起こさない教師には、今一度教育者としての自覚と自負を自らに問うて欲しい。このような状況を知ってか知らずか、放置していた市の教育長もしっかりして頂きたい。上に立つ人ほど、リベラルで分け隔てなく、傲らず侮らず、大らかで人間的な魅力のある人であって欲しい。少なくとも大切な子どもを預ける教育現場では。そう思うのは私一人だけでしょうか?
いま読み返してみると、言葉が刺々しく、配慮に欠けるきらいはあるが、至極正論であると思う。しかし、結局この“意見書”は当該学校へ届けられることはなかった。面倒くさくなったのだ。あんな破廉恥な看板を学校正面に掲げるほどの図太い神経の持ち主なら、何を言っても動じないだろうし、何が悪いのだと開き直られてしまうのがオチだと考えたのである。当時の私にとって教育に対する期待も、その程度のものであったのだ。でも今は違う。仮にも教育委員になったからには、出すべき口は出し、少しでも健全で豊かな教育環境を、児童生徒に提供していかなければならないのだ。義憤を私憤として終わらせるのではなく、公憤として発信することが、公人としての私の使命なのである。
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